一緒に仕事をしている人に日本に住んでいたことのある人がいて、彼と話していている中で東京を形容する言葉として出てきたのが serenity だった。訳すと平穏とでもいったところだろうか。「最初は英語も通じないし、色々なことの勝手が違うので戸惑ったが、慣れるととても心地良い生活に変わった。まるで裏でタクトを振っている人がいて、その通りに社会が進行していくようだった。その前に住んでいた香港やシンガポールに比べると落ち着いているよね。」彼は褒めているつもりで言ってくれていたのだと思うが、こちらは複雑な心境。彼の言っていることはとても良く分かる。実際、自分にとっても東京は恐らく世界で一番 convenient な街だと思う。何事も時間通りにことが運び、何時に出歩いても概して安全だし、文字通りコンビニは24時間いつだって開いている。サービスの水準も(何を基準にするかによるが)標準的に高いし、不満に思うことが少ない。ロンドンに来てから気づくことだが、宅急便の配達指定時間が2時間単位でできて、かつその通りにやってきて、こちらがいないとなれば不在通知表に連絡先まで書いていってくれる、などということは他の国ではまだまだ実現に時間がかかるレベルのことなのである。
が、しかし、である。この心地良さのおかげでいつしか日本は考えることを人に任せてしまってはいないだろうか。まさに誰かが裏で振っているタクトのリズムに身を任せて生きることに慣れてしまってはいないだろうか。「そうすることになっているから」「みんながそうしているから」「前からそうしているから」という理由で採られる行動が多くなっているのではないかと思う。そして、それなりの規模の国内市場と、それなりの生活水準をまだ維持している日本は閉鎖的なまま思考停止してしまってはいないだろうか。外国に暮らして一年ほど経つが、ちょうどこんな漠然とした感覚を抱いていたところに serenity 発言があって考えが益々固まっていった。
翻ってイギリス。この国に暮らしている中で不満に思うことも多々あるけれど、何よりも感じるのは社会の柔軟性である。政治も経済も日々ダイナミックに変化し続ける。そうすることによってしか存続できないと悟った国が次から次へとその時々の世界の状況にあわせて政策を実行していく。政治に関して言えば与党と野党がトコトン議論することで最善の策を練っていく。こちらでは equal であることよりも fair であることを重要視する気がする。equality は与えられるものではなくて、fair な環境の中で各々が主張をして獲得していくもの。そんな考えが社会の前提となっていると感じる。
息子の通う小学校の教育を見ていてもそう思うことがある。最近のことなのだが、息子がどうやらクラスメートに自分が使っていた本を横取りされて先生に言いつけたのだそうだ。その際の先生の行動は決して横取りした子に行って本を取り返すとうことではなくて、息子に対して「横取りした子にちゃんと自分の気持ちを伝えたの?取られたことで嫌な気持ちになったこと。取って欲しくないということ。きちんと言わないと分からないわよ。」と言ったそうだ。(先生自身がシェアしてくれたのだから間違いない)息子はまさに日本的な「誰かが本を読んでいたら横取りをしてはならない」というルールから外れたことをされた不快感を伝えるのと、正義が取り返されることを権力(先生)に求めるという行動に出た。それに対して彼が突きつけられたのは「ルールなんて時代と状況によって変わるのだから自分できちんと主張して自分の目的を果たしなさい」という助言だったのである。
そしてプレゼンテーションに関して言えば、5歳にもなっていない頃から(うちの子に至ってはまだ英語もできない頃から)クラスの前に立たされて show and tell の発表をさせられる。自分の好きなおもちゃ、出身国の文化を表すモノなどを持参して説明し、クラスメートからの質問に応える。早くから自分の主張をいかに表現するか、そして他者とどのように受け答えをするかをトレーニングされる。
日本と決定的に違うのは色々なバックグラウンドの人がいることが当たり前だということで、日本の用にある程度の暗黙の共通認識に頼ることができない。イギリスは、ロンドンはどんどん変わり続ける。どんどん変わり続ける世界の中で順応するために。日本はどうか。
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